ビー玉はアンの箱の中 分かり合えない僕たちの行方

サリーとアン課題の奥底に見える深淵

 サリーとアン課題と呼ばれる問題、皆さんはご存知だろうか?

 これは簡単な心理検査であり、発達心理障害をチェックする問題である。以下、その問題の内容を記そう。

サリーはビー玉を取って自分のかごに隠しました。その後、彼女は部屋を離れ、散歩に出かけました。彼女がいない間に、アンはサリーのかごからビー玉を取り出し、自分の箱に入れました。この後、サリーが散歩から帰ってきました。さて、サリーはビー玉を見つけるためにまずどこを探すでしょう?

 これは、誤信念を他人に帰する社会的認知能力を測定することを目的として作られた問題である。登場人物はサリーとアンの二人。サリーが自分のかごに隠したビー玉は、その後アンの箱の中へと移し替えられた。散歩に出かけておりその場にいなかったサリーは当然そのことを知らない。したがって、帰ってきたサリーが最初に探すのは、彼女がビー玉を最初に隠した「自分のかごの中」である。

 しかし、この問題に「アンの箱の中でしょ?」と真顔で答える人たちがいる。彼らが抱える障害とは一体何なのか。

 そこに潜むのは、自分が知っていることや事実として信じていることを、他人も同様に知っているし、信じていると思い込んでしまう誤認識だ。読み手の視点からすれば、アンがビー玉を移し替えたことは紛れもない事実である。そしてその視点は、サリーの視点とは一致しない。サリーがその場から一時的にいなくなった時点で、我々の視点と彼女の視点は不連続になる。そのことが理解できず、自分が知っていることと、サリーが認識していることを混同してしまうという誤認識が、この問題に不正解する人々には共通しているのだ。

 1985年に行われた研究の中では、4歳以下の子どもの多くがこの問題に「アンの箱の中」と答えている。つまり、幼い子どもたちには、自分の見たことと他人の見たことの区別がまだはっきりとついていない。そういうわけで、先ほど「サリーのかごの中に決まっているじゃないか」と自信満々に答えた我々の多くも、3歳やそこらの頃には、この問題を誤答していた可能性が高い。

 そしてそれ以上の年齢になってくると正答率は順調に上がっていくのだが、自閉症を持つケースでは、4歳以下の子どもたち同様に正答率が低かった。

 

この問題が分からないという一人の友人

 さて、私がこの問題について興味を持ったのは、ほんの数ヶ月前のことである。私の友人がこの問題が分からないということを打ち明けてくれたのだ。彼は23歳であり、もう立派な大人だ。少し天然でとぼけたところのある彼だが、そんなところも、私は彼の魅力の一つに感じていた。しかし、この告白をきっかけに、私の中での彼の存在が少し、いや少しと言うには幾分大きく変わってしまった。

 まず言っておくが、間違いなく彼は悪いヤツではない。しかし風変わりな人間ではある。社交的でよく話すタイプなのだが、複数人で会話しているときには、コンテクストを正しく理解できていないことが度々あり、話が噛み合わないということも多かった。知識に偏りがあり、自分の知らない話題が出てくると、その度に会話を遮って質問をした。また非常に気分屋で、遅刻やドタキャンは日常茶飯事だったし、楽しく話している最中に突然不機嫌になったりすることさえあった。そして厄介なことに、自分でもその理由が判然としないようで、私たちにも、何が彼の機嫌を損ねたのかは分からないままだった。私がいくらその理由を推測してみせても、彼は異論があるといった表情のまま黙っていた。そういった問題は大いにある人物だったが、私含め共通の友人たちの間で、彼は「そういうヤツ」で通っていたし、持ち前の愛嬌もあって、これまで特段気にしたこともなかった。そう、気にしていなかったはずなのだ。

 しかし、彼から打ち明けられた話によって、私は内心でほんのわずかに、これまで彼の言動の数々を不審に感じていたということを自覚する羽目になってしまった。彼にサリーとアン課題を解けないことに繋がる障害があったという事実は、たったそれだけで、彼が時折見せたおかしな言動全てに合点が行くには十分だった。そしてその時点から、私は全くそれまで通りに彼と接するということができなくなってしまったのだ。

 これは極めて辛く、自己嫌悪にすら直結する事件であった。彼は恐らく私を信用して、自分の障害を明かしてくれたのだろう。しかし当の私は、その事実を知らされて以降、彼を色眼鏡で見るようになってしまっている。というのも、これまでだったら、彼が理解できないという事柄に対して、私は彼を納得させようと熱心に理論立てて説明していた。そうすれば同じ人間同士必ず分かり合えるはずだと信じていたからだ。たとえ、多少の価値観のズレがあったとしてもだ。しかし今では、説明を試みる前に、「彼には分からないものは分からないのではないだろうか」という邪推が脳内に浮かび、思うように言葉が出てこなくなってしまった。これは、確実に今まで通りではない。彼と分かり合うことへの、ある種の諦めが、そこに漫然と横たわっていた。

 果たして、私は分かり合うために、熱心に自分の理論を彼の前で披露し続けるべきなのかだろうか。だって、私と彼では持っている理屈がきっと違う。私の理屈は彼の中では全く論理性に欠けているという可能性だってある。どうせ彼には分からないのなら、諦めて別の話題にすり替えるべきなのではないか?ぶつかり合うのは消耗するから、避けたい。そんな風な思考回路が、我が脳内に新たに敷設されてしまったようだ。

 

分かり合えいないとき、どうするのが正解か

 私は今だに悩んでいる。なんならこの事実を知りたくなかったとさえ思う。しかし、知った以上、知らないように振る舞うことも難しい。私はこの諦めを正当化しようと思う。つまり、適当な距離を置いて彼との友人関係を続けていくということだ。近づきすぎると分かり合えないことがもどかしくなり、自分の理屈を押し付けて、相手を責めたくなってしまうかもしれない。そしてその気持ちは、数時間後には私の中で自己嫌悪に変わるはずだ。それは彼にとっても、私にとってもよろしくなかろう。

 それにもしかしたら彼は、この事実を知って私の対応が変わることを望んでいたのかもしれない。真意は分からないが、今度機会があったら尋ねてみることにしよう。

 さて、私は彼のことが嫌いじゃない。ときどき、彼の言動を見て、もやもやとした気持ちになることはあるが、それは自分の内側の問題だ。彼との一番良い付き合い方を模索していくうちに、どうにか対処できる事柄だと考えている。

 私は、彼の告白を通じて、色々なことに気付かされた。自分が思っていたより器の狭い生き物だったということもそうだ。しかし多くの人間がそうじゃないか?自分と似た考え方や理屈、価値観を持った者同士で集まり、コミュニティを築いている。そうやって小さな社会を構成している。本当は、誰かと全く違うということも、全く同じということもあり得ない。同じ部分だって、違う部分だって、私たちはそれぞれ持っている。その中で、自分となるべく似ている連中を捕まえて、分かり合えることに安心しているのだろう。「これが普通だよね」と言い聞かせているのかもしれない。しかし、違う部分を受け入れようとする努力を尊いものだと、私は思いたい。ただ、それもあくまで自分の中の理屈に過ぎないというのは、いささか虚しい事実だが。

 彼は、私とだいぶ違う生き物のようで、なかなかに予測しづらいし、故に扱いづらい。しかし、なんとなく一緒にいて楽しいことも沢山あるので、これからも友人でいるのだと思う。彼が突然怒ってどこかに行ってしまっても、私には、渋い顔をしながら人差し指と中指を交差させ、彼の幸せを祈るくらいの度量はあるのである。Fingers crossed!