不思議な少年と悲劇のヒロイン(私)

マークトウェインの『不思議な少年

 最近、とある人が「これ面白いよ」と言って、マークトウェインの『不思議な少年』を貸してくれた。マークトウェインといえば、日本でアニメ化もされた『トムソーヤーの冒険』や続編『ハックルベリー・フィンの冒険』などで有名なアメリカの小説家である。社会問題に対する著者の深い洞察が垣間見えるが、これまで私は、彼の作品はあくまで健全な児童文学という認識でいた。

 しかし、児童文学を読むような軽い気持ちで、この『不思議な少年』を読み始めてしまったことを、私は後悔することになる。はっきり申し上げれば、私は不意打ちを食らい、深淵の中に閉じ込められるような鬱に陥った。そして読み終わった後で、私はこれを“呪いの本”だと断定することになる。

 

どうして呪いの本なのか

 まずタイトルにある不思議な少年というのは、物語に登場するサタンという名の天使のこと。「え、天使がサタン?」と疑問に思うのはごもっとも。サタンとは、あの有名な悪魔と同じ名ではないか。しかし、我々の知るそのサタンは堕天使であり、悪魔になる前の彼は、もともと天使だったのだという。そして物語に出てくる少年は、その悪魔になってしまった堕天使サタンの甥っ子なのである。「悪魔は僕の伯父さんだよ」と何食わぬ顔で言ってのける天使サタンは、年端もいかない主人公・テオドールたちと変わらない見た目をしているが、実は天使の中では若いというだけで、すでに二千歳を超えている。二千年もの長きに渡り世界を見てきたのだ。

 物語の舞台は、魔女裁判が平然と行われていた中世ヨーロッパのとある村。キリスト教徒の異教徒に対する処刑方法は残酷で容赦無く、魔女だと疑われればやがては問答無用で火炙りにされてしまう。テオドールのよく知るピーター神父でさえ、疑いようのない“善人”であるはずなのに、謂れなき噂話が原因で職を失い、路頭に迷っていた。村人は誰しも疑心暗鬼になり、いつもどこか怯えていた。そんな時代の話。

 サタンが人間界でテオドールと出会い、仲良くなることから物話は始まる。目の前で数々の魔法を披露したり、予言をしてみせるサタンに、純粋な子供たちはすぐに夢中になる。しかし彼は時折、ひどく冷酷な物言いで、人間を虫ケラ同然に扱うことがあった。それを見る度に、テオドールたちは不安になるのだが、サタンは言う。「人間と僕たちじゃ、程度が全くちがうのだから当然だ」と。

 サタンとテオドールの会話を中心に、語は進んでいく。私にとって最も印象的なセリフは、サタンの「人間には頭がついていない」というものだった。どういう意味か。サタンからすると、我々人間にはそもそも、物事を考えられるだけの頭など備わっていないのだという。文字通り、“脳なし”だ。それが一生懸命にいろんなことを考えようとし、あまつさえ自分で善悪を判断できると過信しているのだから笑ってしまう、と彼は言う。なんとも傍若無人だが、しかし彼の言葉は私の心に刺さって痛い。サタンいわく、人間は善悪を判断するだけでは飽き足らず、“良心”というものまで作り出してしまった。そしてその“良心”こそが全ての不幸の始まりなのだという。「良心を持たない動物は、人間のように愚かで残酷な仕打ちをすることはない」と彼は続ける。人間の残酷さは、全て良心に起因して生み出されているのだ、と。

 思い当たることなら、いくらでもある。善意があるから悪意がある。それは、光がなければ影がないのと同じこと。人間の善意は“期待”になりやすい。人は相手を鏡に見立て、自分がされたら嬉しいことをし、その施しは“いいこと”だと思ってやまない。でもその期待が裏切られることなど、いくらでもある。そしてか弱い人間は、簡単に悪意の方に感染してしまう。悪意を断ち切るために、悪意を持って他人に挑んでいく。そうなったら後は想像に容易い。恐怖に支配された人間は、あっという間に善意なんて忘れてしまうだろう。

 物語の中盤、サタンを恐れながらも、その力に魅せられてしまうテオドールは、罪がないのに罰せられようとしているピーター神父を助けたいと、サタンにお願いする。そして彼の罪を断罪する裁判が行われるその日、テオドールの前に現れたサタンは弁護士に乗り移り、見事ピーター神父を裁判に勝たせるのだ。テオドールたちが喜んだのも束の間、サタンはピーター神父から正気を奪い、狂人に変えてしまう。優しかったピーター神父は、自分を皇帝だと思い込み、傲然に振る舞う爺さんに成り果て、その姿にみんなは涙する。「どうしてこんな酷いことを」と嘆くテオドールに、サタンはこう言った。

 

「正気でいるのが、彼にとって一番の不幸であることが、どうして分からないのか」

 

人間に、考えるに足る頭はあるのか

 考えれば考えるほど、頭の中が悲劇的になるという経験がないだろうか。ネガティブ思考といえばそれまでだが、要は人間が自分の頭で突き詰めて考えすぎると、自分の力で解決できないと分かってドン詰まる。何を隠そう、私はそんな悲劇思考の常習犯だ。

 古くからの友人からの連絡が途絶えれば、その理由を端から端まで憶測する。「事故に遭った?病気とか?」「いや、私が何か気に触ることしたのかも」「あのときのあの言い方がまずかった?」「それとも他に何か嫌なことが起きて、心を閉ざしてしまったのかも」「でもこっちから立て続けに連絡するのもな」「気持ち悪がられたら嫌だし」

 憶測は、気付けば被害妄想に変わっている。そんなことはいくらでもある。仕事でも、友達のことでも、家族のことでも、恋人のことでも。あてもなく考え続けたところで、誰も答えを知らない。当然、真実は見えてこない。他人が怖くなって、自分を嫌いになるだけだ。なんて虚しい時間だろう。返してほしい。

 なんでも不思議な少年によると、人間は不幸になる機械と幸せになる機械を組み合わせてできているらしい。しかし一度そのバランスを崩せば、幸せの機械は止まり、空回るのは不幸の機械の方。くるくる、くるくる、回転する数だけ、人は不幸になっていく。

 

呪いの本は、救いの本でもある

 私にこの本を貸してくれた人は、読み終わった私にあっけらかんと「この本救われるよね」と言い放った。なんでも、人間こんなもんなんだと思えば、色々なことに諦めがつくのだという。

 そうか、私を苦しませているのは執着か。俄に見えてきた、私の首を絞めているものの正体。それは、考え尽くしたら答えを出せるかもしれないという自分自身への期待や、私が正しいと思うことが本当に正しかったらという念願。そして何より、他人と分かり合うことへの渇望だ。ああ、それを捨てられたらどんなに楽だろう。

 人間には頭がない。ないものに頼ろうとしても無駄である。それは絶望を突きつけるようでいて、希望を与えてくれる言葉なのかもしれない。諦めの中から生まれてくるのが、それでも生きていることは愛しいと思えるような慈しみだったら、きっと誰の心にも平穏が訪れるだろう。