言葉よ、少しは遠慮してくれ

言葉にできないこと

 国立新美術館で、李禹煥の企画展を見てきた。彼は「もの派」を代表する現代の美術家である。「もの派」というのは、自然や人工素材を組み合わせ、すべては相互関係のもとにあるということを訴えるような視覚芸術だ。それは見る者に、ものとものとの関係、ものと人との関係を問いかける。李禹煥の作品には、あらゆる人とものが、相互に作用しあって共存していることを証明するような作品が多く見られる。

 そもそも「もの派」というのは、土、石、水、紙といった素材そのものにほとんど手を加えないインスタレーション制作を中心に展開されてきた。芸術の再創造を目指し、ものへの還元に至ったのは、多摩美系と李を中心とするアーティスト達であった。

 私はこれまで、「もの派」に対し、華美で冗長な描写を嫌うミニマリストという印象を持っていた。それに彼らの作品は、言葉にしにくい、つまり理論立てて大衆にその意味するところを説明しにくいアートだと感じていた。生で見れば感動するし、紛れもない芸術を目の当たりにしていると感じるのに、それがなぜ良いのか、他の作品と何が違うのか、それを説明しろと言われても、非常に難しい。元来、芸術とはそういうものなのかもしれないが。

 実際、このあいだ李の展示に足を運んだときも、彼の作品を見つめる私の脳内には、言葉なんて一つも浮かんでこなかった。白い壁に囲まれた空間の中に鎮座し、高い天井から注がれる簡単な照明を浴びる岩や砕けたガラス、容器一杯の水、そのコンポジションを眺めていても、脳内はまっさらな状態で視覚情報を受け取るばかりで、それに対する解釈が一向に生成されない。「なるほどこれはこういうことか」という納得感や、涙するほどの単純な「美しさ」も、私には見えてこないのだ。それでも、シンプルな素材だけで人の手をそれほど加えずに出来上がったであろうそれに、感動している自分はいる。まさにその配置や空間の取り方から、ものとものとの関係、そしてそれを眺める自分との関連を感じていると確かに分かる。

 彼の作品に対し、私は油絵を鑑賞するときのように間近で目を凝らし、その細部を観察してみようとは思ったことがない。ようく近づいて見れば、石の表面のざらつきや凹み、壁に貼られた紙の質感なんかは分かるだろう。しかしそういった部分は瑣末でどうでもいいことのように思われる。そんなことよりも断然、作品と私が存在しているその「空間」を把握していたいのだ。少しだけ近づいたり、後退りしたり、作品と私の間の丁度良い距離感を、足を動かし自分で測りながら、すべての調和が取れる位置を探り当てる。その距離から作品と対峙することで、私はいつまでもそこに立っていられるような心地よさを手に入れることができるのだ。私にとっての「もの派」の芸術とは、そういうものであると言う他に上手い説明が思いつかない。

 さて、多くの芸術作品にはステイトメントというものがある。説明書きだ。作者がその作品を創るに至った背景や、作品が表現しているものの正体を明かすような文章だ。ぱっと見て意味不明で不条理極まりないアートでも、ステイトメントを読んで共感することができれば、自分の中に解釈が与えられ、瞬く間にその異物への共感が生まれるから不思議である。というより、頭でっかちな人間らしいアートだと言えるかもしれない。事実、芸術はアーティストの直感から生まれようとも、やがては理論化されていく。そして解釈は明文化されていくものだ。それはもっともらしい根拠を示し、芸術と社会を結びつける意味を与える。そして巧みな言葉選びで、私たちを納得させてしまうだろう。

 

言葉はときに幻を見せる

 もっともらしく並べ立てられた言葉は真実味を持って、私たちを取り込んでいく。なんだかよく分からない奇怪な塊にも、愛着が湧いてくる。でもそれは本当に作品を理解できたからなのだろうか?ステイトメントに共感しているだけなら、それが貼り付けられている作品が全く別のものだって構わないんじゃないか?

 私は言葉にできない感動を、言葉にしてしまったときの陳腐さをよく知っている。果たして恋人と美術館に行って、何か素晴らしい芸術作品を一緒に眺めている恋人から出てきた言葉にがっかりしなかった人などいるのだろうか。大抵は「すげえ」「なんかいいな」に終始するだろうし、物知り顔で「この作品は日本の工業化を農業との比較からシニカルに云々」などと言われた時には目も当てられない。頼むから黙っていてほしい。大衆に受け入れられるために理論で武装した芸術は、どうしてこんなに哀しいのだろう。私たちは言葉を信じ過ぎている。見たものや聴いたものを頭の中で言葉に変えてしまえば、解釈してしまえば、それを吸収して自分のものにできたとでも思っているみたいだ。

 私はたまに言葉を捨てたくなる。「すごい」とも「感動した」とも言いたくない。「分かった」とも「よく分からない」とも。「好き」とも「嫌い」とも。脳内から言葉をかき消してしまいたい。言葉にするのは、芸術への感動を分かち合うことから最も遠ざかる行為だとさえ思う。ただ黙って空間を共有し、そこに存在している全てを包む空気を、私たち全てを関連付けている「何か」を感じ取ることが、「共感」することなんだろう。

 

感性に言葉はいらない

 私は言葉を扱う仕事をしているし、どちらかといえば言葉の力を世に広める活動をしているといえる。言葉はすごい。そのすごさは、止まった人を動かし、世界を変えてしまえるくらいのものだ。言葉には人を操る力がある。誰かを傷つけることも、励ますことも容易くやってのける。戦争を起こすきっかけにも、終わらせるきっかけにもなるだろう。

 だけれど、言葉の存在しない領域も、私は愛している。言葉の入り込む余地のない絵画や写真、映像、建築物、自然は確かにあって、そこにずかずかと踏み込もうとする言葉を見つけると私は「少しは遠慮してくれ」と思う。ここはお前のくるところじゃない。何も言うな。なにもかも言葉に変えてしまおうとするなよ、そう思うのだ。

 芸術にステイトメントなど要らない、とまでは言うつもりはないが、それでもそれを読む前に、作品と対峙した自分が直感したことは大事にとっておきたいと思っている。私の身体の言葉を捨てた部分に、知らない周波数から言葉を持たないメッセージが届く。あの瞬間が、私はとても好きだから。