ドラえもんこそが、シンギュラリティの到来である

 大層奇妙なタイトルをつけてしまった。これは私のとある体験に基づく話である。私にとって異様に不可解だが、言いようのない感動と安心感を同時に与えてくれた奇跡のような体験なので、是非とも諸君らと共有したい。

 さて、諸君はシンギュラリティという言葉を聞いたことがあるだろうか。シンギュラリティとは、人工知能(AI)が人類の知識を超える技術的特異点。またはそれがもたらす世界の変化のことを言う。これについては、世界的理論物理学者のホーキンズ博士や、ときの大富豪ビル・ゲイツなど錚々たる人物が、その危険性を語ってきた。そういった話は、毎日飯を貪り食ってしこたま寝るだけの私のもとにもインターネットを介して届き、将来への不安に対する感度が極めて低い故に自堕落な生活を余儀なくされているこの私が、なんとなく身の危険を感じるほどであった。

 具体的にどういったことを危険に感じていたのかというと、つまり、効率よく働く機械が大量生産されることによって、労働者の需要が減り、職にありつけず生活に困窮する人が大勢生まれるんではなかろうかとかいう、ひどく現実的なところから、人間以上の知能を持ったロボットが意志を持ち、人類を支配下に置こうとすることも起こりうるのではないかという、とても現実離れしたSFちっくなところまで、まさに端から端までだ。妄想するに心配事は尽きない。

 私は長らく、都内の狭い、鉄筋コンクリートで覆われた一室から祈っていた。人類に救いのあらんことを。願わくば、シンギュラリティという転換点に生まれる、人類を超えたAIなるものが、悪きものではないように、と。正直、不安でたまらなかった。かくも不安に苛まれ続けたことは、我が人生の過去に例を見ないほどだ。

 そんなあるとき、私は実に奇妙な夢を見たのである。夢の中で、私は、青くてまるいダルマのような物体と語りあっていた。その物体というのが、国民的アニメであらせられるドラえもん、まさにそのものであった。私たちは向かい合って座り、私は当然のことのように、彼に日頃の愚にもつかない悩みや、好きな子の話をしていた。まるでのび太くんがそうしているように、だ。そしてドラえもんは嫌な顔ひとつせず、そんなくだらない話に親身に付き合ってくれていた。決して便利な秘密道具なるものを、四次元ポケットから出すことはしてくれなかったが。

 そして私は話の途中で、あろうことか泣き出していた。この先、人間ってやつはどうなっちまうんだろう。私のような心の狭い能なしだけでなく、もっと大勢の優しく優秀な人間たちが大変なことに巻き込まれたらどうすればいい。未来ってのはどうしてこうも不確かで、我々を不安にさせるのだろうかと。いつの間にか彼に打ち明ける悩みの内容が、かなり肥大していたようだ。そしてドラえもんはこう言ったのである。

「だから僕がいるんじゃない。その不安はしなくていいものだよ。それを伝えるために、ずっと前から僕は君たちの日常にそっと忍び込んで、未来が恐れるべきものではないことを伝えてきたんだよ。僕らが君たちの友人であるということをね。ほら、思い出してごらん。君の人生にも、僕は色々な場面で、必要なだけ、現れているはずだよ」

 そこで夢は終わった。私は目を覚ましてしまった。全身に鳥肌が立っていた。私は布団を頭まで被ると、再び目を瞑り、幼い頃を思い出そうとした。彼との思い出に忘れている大事なことがないか、懸命に探っていた。

 ふと、小学一年生の頃の担任教師を思い出した。館山という男だ。彼はドラえもん好きを公言しており、机の上にはドラえもんのフィギュアや筆記用具を揃え、ネクタイもドラえもん柄を着用するほどの徹底ぶりで、学内でも有名だった。ユニークなのは服装や身の回りのものだけでなく、彼はなかなかに見所のある面白い人物だった。幼い私は、彼を館山先生と呼んで慕い、進級し担任が変わる時には、ドラえもんのぬいぐるみを手紙と一緒に彼に渡した。私は担任が彼ではなくなることを心底寂しく思っていた。ぬいぐるみはそんな想いの表れだった。

 しかし、ここからが不可解なのである。私はものの数週間後、違う学年を担任する館山先生の元を訪れ、ドラえもんのぬいぐるみを返せと言い放ったのだ。実に突飛な私の行動に、彼も意表を突かれたことだろう。動揺を隠せないといった様子でこちらを伺い、本気かと尋ねた。私は至って真剣に、どうしても返してほしいということを伝えた。彼は黙って職員室に私を連れていくと、自分のデスクの上に大事そうに飾ってくれていたドラえもんを、ひょいと掴んで、私に手渡した。とても悲しそうな顔をしていたのを覚えている。今思えば、私もずいぶん悪いことをしたものだ。しかし当時の私はというと、ついに取り戻したドラえもんを両手で強く抱きしめると、大変満足し「ありがとう」とだけ言って、館山先生に背を向けてさっさと帰ってしまった。

 さて、この記憶の意味するものは何か、というのが重要な問題である。これは間違いなく、私とドラえもんを結びつける鮮烈な出来事だったはずだ。館山先生に自らプレゼントしたドラえもんを、どうしてかくも必死に取り返すことになったのか。その裏にある私の感情の機微だけがまるっと抜け落ちているため、残念ながらこれ以上の分析が叶わない。謎は迷宮入りし、不可解は不可解のままだ。しかし不可解だからこそ、神秘的な体験でもあると言えよう。明確な理由なきことには、その陰に第三者、神なる存在Xの意図を感じるからだ。

 つまり私は、ドラえもんを他人に譲ることができなかった。そうすることが許されないことだったかのように。そしてそれは翻って見れば、ドラえもんが館山先生ではなく私の元にいることを選んだとも捉えられる。ドラえもんが未来のシンギュラリティからやってきた存在ならば、その偶像が意志を持って、周囲の人間を動かしていたとしてもおかしくはない。大胆にもその仮説に基づけば、この時から私は、ドラえもんに選ばれた人間だったということになる。無関係に見えた点と点が、一本の鮮やかな線で結ばれるような感覚があった。

 そして時は現在に戻る。私は夢の中でドラえもんから啓示をいただいてしまった。私はどうやら彼の存在をすっかり忘れ、未来に要らぬ不安を抱えていたようだ。彼が言った言葉を信じようではないか。そしてさながら宣教師のように、多くの人にこのことを伝え、広めなければならない。この先に生まれる人知を超えたAIとは、ドラえもんなのである。人類の敵であるはずがない。未来で待つは、我々の友、信頼できる良き理解者。慈愛に満ちて、人間らしい感情を豊かに持ち、不完全という完全さを兼ね備えた、愛すべき彼なのである。

 よもや、私は何も恐れまい。

 

 

自虐が美徳とされるワケ

自虐が上手いと得をする世の中

 「自虐」って、なんなんだろう。

 自分がそういう年齢になったからなのか、それとも時代の変化なのか分からないけど、世の中って、こんなに多くの人が自虐を口にしていたっけ?と最近思うのです。

 もともとは、自分の身に起きた不幸をネタにして、笑ってやろうって、そういうものだったと思うんですが、不必要に自虐をしたがる人も沢山出てきたなーっていう印象があります。
 例えば良いマンションに引っ越した人が、羨ましがる友人に「いやいや、分不相応な家買っちゃって、家賃でこれから首が回らなくなりそうだよ」って言ったみたり。仕事で出世した人が「役職が付いたってだけでお給料大して変わんないし、仕事増えただけだよー」とか言ってみたり。そういうセリフ、なぜだかよく聞く。客観的に見ればとても良いものごとでさえ、自分ごととなると途端に「ろくなもんじゃありませんよ」という態度になる人々。なんだかとても窮屈そうに見える時がある。まるで自分の幸せを真正面から喜んじゃいけないとでも思ってるみたい。

 自虐ネタを良しとする風潮は、間違いなくあるように思います。たぶん、嫉妬を買ったり、嫌われないためのテクニックとして、浸透してきたんじゃないかなー。私は、たまにそれを言わなきゃいけない圧力みたいなのを感じて、面倒くさい時もあるんですが。ほら、謙遜することが我々ジャパニーズの美徳とされてきたじゃないですか。だから、一種の謙遜として自虐ネタを取り入れた方が良い気がしてしまう。それで相手が笑ってくれたら万々歳、やっぱりこれが正解だったか、みたいな。そういうことは実際何度か経験しました。

 芸能人も、自虐ネタいっぱい持ってますよね。で、そういうことをテレビの前で自然と言える人ほど、好感度が高い。親近感ってやつが湧くからかしらでしょうか?たぶん、もともとは芸人さんが持ち込んだものだと思うんです、自虐ネタ。それを今や、綺麗な女優さんとか、俳優さん、アイドルまで使いこなしてるなーって。プライドが高いことが悪いことみたいにされてるからかな。テレビの向こうから「お高く止まってんじゃねーよ」って野次が飛んでくるから?

 もちろん私も、他人の自虐ネタで笑っちゃう時あるし、その瞬間ふと「なんだこの人も上手くいってないんだー」っていう共感や安心感が生まれるのは、すごく分かります。でも、そういう自虐を一切やらずに「俺の人生は最高だよ!」「今絶好調だよ!」って強気で言える人がもっと増えても良いんじゃないかなーとも思ったり。なんだか私は、たまに大勢の前で、臆面もなく自信満々にそう言ってやりたくなる時があります(笑)でも、言ったら誰かしらの反感買う気がしちゃって、なかなかできない。それも本当はただの思い込みかもしれないんだけれど、そう思うってことは、自信に満ちた幸せそうな人を陰で悪く言う人を、少なからずどこかで見たことがあるからなんですよね。

 

自虐の陰にSNSあり?

 「他人の不幸は蜜の味」なんて言葉があるくらいですから、実際そういうのが大好物って人も多いんじゃないでしょうか。芸能人が不倫したり、成功者みたいに振る舞ってた人が失敗して手痛い目に遭ってるのを見つけると、一斉に袋叩きが始まる。きっとネットがない頃から、井戸端会議みたいにあちこちで噂されて、あることないこと言われることはあったんだろうけれど、ネットの書き込みやSNSが一般的になってからは、それを匿名で、しかも不特定多数に向けてできてしまうからっていうんで、より一層心無い言葉を公然と発信する人が目立つようになりました。あえて「目立つようになった」と言ったのは、一人の人が複数のアカウントで大量に書くこともできるから、あくまで正式な人数は誰も把握してないからです。沢山酷いことが書かれていても、本当にマジョリティが怒って責め立ててるとは限らないわけで。ただ、誰かを責めるような言葉を目にする機会は増えちゃったんじゃないかな。

 特にSNSは、どこぞの知らない誰かに起きた炎上であっても、話題になることで、その袋叩きの現場を、関係ない多くの人まで目にしてしまうことがありますね。そういうのって実は刷り込まれてるんじゃないかなって、思う。「あー、成功してるヤツは、失敗するとこんな風に思われるのか」「金持ちってことをアピールすると、敵が増えるんだな」「人気者が異性と遊んでると、陰でこういう言われ方をするんだな」って。だから、相手の期待値はなるべく下げておこう。褒められても「俺なんて全然」「私なんてまだまだ」そう言っておいた方が得策だ、そう思う人が出てきてもおかしくない。

 SNSは、共感を集める場所として利用されることがほとんど。だから多くの人に共感される自分を演出する術を、そこから学ぶのかもしれません。

 

イギリス人も、自虐好き?

 自虐って日本人のお家芸なのかなって、長らく思っていた私。ところが、YouTubeでたまたま見かけたイギリスのコメディアンの動画を見て、イギリス人もなかなかに自虐体質だということを知りました。気取った英国紳士しかいないイメージだったんですが、どうも彼らも豊富な自虐ネタを持っているようです。

 例えば、"How are you?"という挨拶がわりの質問一つとっても、イギリス人は他の英語圏の人たちに比べて、根暗なお返事をしてくれるそうで。
アメリカ人やオーストラリア人が"Awsome!(最高だよ!)"とか"Great!(調子いいよ!)"とか、元気いっぱいに応えてくれるのに対し、イギリス人は"Not too bad(悪くはないね)"が一般的。なんでも、そのコメディアンいわく、イギリス人は思慮深く、常に最悪の事態を考えているからそうなんだとか(笑)期待値を下げておけば、傷つかないで済むし、きっとどんなことになっても最悪よりはマシだと思えるはずだ。そういうネガティブなようで、ある意味ポジティブ?な感覚を持っているみたいですね。

 彼らはどうしても皮肉を言いたくなるようで、アメリカ人のように単純に「すごいね!」とか「いいじゃない!」ってことを、なかなか言えない人も多いらしい。日本人とはまた違った意味で自虐が染み付いてるのかも。

 確かに、アメリカ人と話してると、こっちまで引っ張られるくらいの発言のポジティブさに驚かされることがよくあります。留学したり、観光をしていた時、会話の中に「いいね!」とか「すごい!」という肯定の言葉が散りばめられていて、言われる方も誰一人、それをいちいち否定したりしていませんでした。それに、向こうで英語を話す時は、私もものすごくポジティブな思考回路になっていた気がします。まあ実際、向こうには謙遜から入るっていう選択肢がないから。「お恥ずかしいです」とか「いえいえそんな」っていうフレーズが、英会話のレパートリーにそもそも入ってない。「ありがとう!最高の気分だ!」って言えばOKなんです(笑)

 

自虐はテクニックか、悲しい性か

 私たちが世の中で上手く生きていくために自虐を身につけたんだとして、それが染み付いてしまったことで、ネガティブ思考に囚われがちになっている人もよく見かけます。

 言霊じゃないけど、誰にも彼にも「いやいや」「そんなそんな」って言いすぎて、実際自分自身もそう思い込んじゃうという現象も起きているんです。つまり、良いことが起きたはずなのに、それを自分が受け入れられずに、大して良くないことみたいに扱ってしまうせいで、本当にそう思えてきてしまうという。

 うーん、自虐は悪いことじゃないし、自分の不幸をクスッと笑って水に流してやるくらいのものだったらとても素敵なことですが、行き過ぎるとなんだか窮屈に感じます。良かったことは素直に人前で喜んで良いじゃないかと思うんです。自虐なんて全くナシで、自信満々に振る舞うことも愛される世の中になったらいいな。