当方、ディズニーランドが楽しくないのです

ディズニーランドが好きじゃない人間は捻くれ者ですか?

 「ディズニーランドが好きじゃない」と言うと、もれなく周りの人間から“素直じゃない子”や“捻くれ者”の称号を与えられる。全く不名誉な称号であるが、恐らく私はずいぶん前から、そんな称号を欲しいままにしているのだと思う。ディズニーランドは万人にとっての夢の国で、美しいファンタジーの世界。それを楽しめないとは、なんて可哀想な人なんだろう、哀れなり。みんなそう思っているに違いないのだ。

 だが、楽しめないものはどう頑張っても楽しくない。私だって願わくば、みんなのようにディズニーランド最高!と、瞳を輝かせてはしゃげる人間になりたかった。しかし残念ながら、数回足を運んだがいずれも疲労感に苛まれるだけで終わった。もちろん、ディズニー作品の世界を再現した園内や、凝った乗り物、スタッフ個々人の演技力を始め、エンターテインメント性や提供しているサービスのレベルの高さに感動はしている。しかし同時に、その背後にある緻密な全体設計やマーケティング、徹底した人材育成、投資企業や関わる大勢の人々、生み出している巨額の経済効果を連想して圧倒されてしまう。膨大な労力を費やす演者側が気になってしまって、客としてあの世界に没入することができないのである。

 没入する、というのは脳の余計な機能のスイッチを全てオフにして、一つの物事にものすごく集中するということだ。何かになりきって、感じられる全てを体感するということだ。それを可能にするために、ディズニーランドでは視覚や聴覚、嗅覚といった人間の感覚器官が巧みに操作されている。園内はエリアごとに分けられており、それぞれ作品のテーマに沿った街並みに、作中の曲が流れ、雰囲気を盛り上げている。さらにスメリタイザーという装置がそこら中に置いてあり、一定の匂いを放っている。例えば海中に潜るアトラクションのそばでは、本物の海さながらに潮の香りが漂っているのに気づくだろう。訪れた人がディズニーの世界に没入できるのには、こういったわけがあるのだ。

 斯様にして、ディズニーランドに凝らされた趣向の数々を鑑みるに、それでも没入できない自分には、何か欠陥があるのではないかと思えてくる。

 

虚構世界に没入できない理由

 私はいつからこういう人間になったんだろう。

 私だってきっと、この世に生を受けて間もない頃は、愛くるしく泣いたり笑ったりし、楽しいことは他の赤ん坊たちと変わらなかったはずだ。「いないいないばあ」とかいう、馬鹿にしているとしか思えない意味不明な大人たちの言動にも、キャッキャと無邪気に笑ってみせていたに違いない。

 ところが小学生に上がる頃には、すでに“クソ生意気なガキ”として近所に名を馳せ、学年の先生方が一生懸命企画してくださったであろう遠足などのイベントも「だりーわ」の一言で一蹴し(なんと愛想のないガキ!)、中学生になると、親から半ば強制的にぶちこまれた私立の学校を、いけすかない金持ちの巣窟と断定し、いかにも温室育ちといった周りの生徒たちと全く馴染めず、いつもしかめ面ばかりをしていた。高校生時代は、反抗することに疲れ、先生や親に表向き従順に振る舞うようになったものの、二言目には大学進学の話をしてくる連中のことを、まるでプログラミングされたロボットのようで薄気味悪いと内心で感じていた。ずっと退屈だった。心から信頼できる人なんて、たぶん一人もいなかった。

 しかし私は、決して素直になれない反抗期を送っていたのではないと思っている。自分の家庭や学校生活、全てに私は没入できなかったのだ。なんだか全部が作り物みたいに感じられ、クラスメイトも先生も、自分の親すら、役割を演じているだけで、本当はそこに実在してないような気がしていた。言うなれば、過剰なメタ認知をしているような感覚だ。“虚構病”と、私はこの現象を名づけた。全てが虚構(フィクション)に見えて、現実が現実と思えなくなる病だ。

 私は、“”という自覚を持っているのに、自分の見ている世界を、誰かによって見せられているように感じていた。「私はプログラミングされた世界で、ロールプレイングゲームに興じているだけなのか?」一度疑い出すと止まらなくなり、堂々巡りに陥る。

 そこで唯一の手がかりとなるのは、自分という確かに存在している意識体である。「我思う、故に我あり」と言ったデカルトよろしく、私はこれを頼りに、現実は現実であることを証明することで、安心して“私”の世界に没入し、自分の人生を謳歌したかった。

 

やがて、現実に没入せざるをえなくなる

 結果的には、自分を取り巻く現実というものに没入できるようになったというより、せざるをえなくなった。それは、大学生になり親元を離れ、最低限の生活費を自分で稼ぐようになってからのことだ。アルバイトをしなければ、実際に自分の明日の食事がままならなくなり、いずれは飢えることになる。そういう不安が原動力になって私は働き、つまらない講義を真面目に受け、就職活動にも精を出した。

 その時初めて、私は日常に没入できたように思う。簡単なことだ。それまで自分の生きる世界が虚構に見えたのは、自分の人生を借り物のように過ごしてきたからだ。当時馴染めなかった私学の同級生たちと同様、私も所詮、親に守られ進むべき道を決められてきたというだけの話だ。そこにはほとんど自分の選択がなかった。答えはあらかじめ用意されていて、教えられた通りに淡々と選んでいくだけだった。サバイバルをしている感覚は限りなくゼロで、だから世界が作り物のように見えていた。

 今の私は、現実を現実として認識はしている。たまに虚構に見えてくる時は何かしらの危険信号で、自分の人生の舵取りを自分でできなくなってきている兆候だと分かるようになった。実際、毎日同じ会社に出勤し、同じ人の指示に従い、同じような仕事をこなすルーティン作業を繰り返せば、現実からリアリティが欠けていく。そこに足りないのは、自分の選択によってその先が決まるというサバイバル感覚だ。自分の意志で起こしたアクションから、外部にリアクションが生まれているという確かな実感だ。

 

虚構と現実の間で

 さて、この話はディズニーランドから始まった。

 現実世界に生きる“私”に没入し、人生を満喫することはできるようになったわけだが、それでもこの間久しぶりに行ったディズニーランドは、やはり自分が楽しめるものではなかった。私にとってそれは、夢の国でもファンタジー世界でもなく、(株)オリエンタルランドが経営するテーマパークでしかない。あれほど優れた虚構でも、入り込むことができなかった。

 しかし、その理由を私はもう知っている。ディズニーランドという虚構は、誰かによって用意されたものであり、私たちはそこで何かを生み出すことなく、ただ享受しているだけに過ぎないからだ。作られたファンタジーは、金銭と引き換えに与えられ、安全が保証された園内で起こることはおおよそ予想の範疇を出ない。

 現実も虚構も、その中に入り込むためには自分との双方向性が必要不可欠なのである。自分のアクションに対し、リアクションが返ってこない世界に埋没できるわけがない。そうやって一度メタ認知をしてしまえば、あの虚構に没入し、心から楽しむことはできなくなってしまうのだ。メタ認知を封じれば、私もディズニーランドを楽しめるようになるのだろうか。次回は酒でベロンベロンになってから訪れてみることにしよう。

 ちなみに私にも、ディズニーランドで唯一邪念なしに楽しめたものがある。タートルトークだ。私はあの日本語を話すウミガメのコーナーだけに、繰り返し並んでいた。毎回違う客席の人々に合わせてアドリブが飛んでくることに、リアリティを感じるからだろうか。彼の話は、スクリーンの裏側でアフレコしている人間のお兄さんを想像してもなお愉快だ。

 

 「お前たち、最高だぜ〜」